うちの娘おかめ納豆に似てる。

アラサー主婦による育児記録や結婚生活やなんでもないこと、購入おもちゃや趣味などを書き綴るブログ。

高次元豚

夫が休みなので一緒に出かけ、お昼を食べに大戸屋に入りメニューを決めていた時のことだ。

私「どうしよう。私生姜焼きにしようかな」
夫「あ、この四次元豚の生姜焼き定食ってやつ?」
私「いや、四元豚だから」
どうやら彼の中の大戸屋では我々より高次元で生きる豚を提供することが可能らしい。

ゴリラに。愛を込めて

最近ゴリラが妙に気になる。もしかしたらもう好きなのかもしれない。

幼い頃にリスザルに噛まれて以来、猿は私にとって脅威であり天敵だった。
動物園へ出掛けてもチンパンジーやマントヒヒの檻などは立ち止まることなく鼻で笑って通り過ぎていた。

もちろんゴリラも奴らと同等だった。

しかし、今夏気まぐれに出掛けた動物園で久々にゴリラを見た刹那衝撃が走った。

ガラス越しのゴリラは日常に惓んでいた。何かを諦め切ったような、そんな目をしていた。
こんなに切ない表情を浮かべる動物を他に私は知らない。

ゴリラについて何も知識がなかったので調べてみると、彼らは私が思い描いていたゴリラとは大きくかけ離れた生き物であった。

・あのルックスで菜食志向
ゴリラは雑食だが、野生のゴリラは植物を好んで食べる。たまに昆虫で動物性蛋白質を摂ることもあるが、基本的に肉は好まない。
チンパンジーやボノボは別の群れの猿や他種の猿を捕食するが、ゴリラが猿を捕食した目撃例はない。
しかし雑食なので肉を食べられないというわけではない。アメリカの動物園ではゴリラにフライドチキンを与えているところもあるらしい。

・温厚な性格で戦いが嫌い
縄張りに入ろうとするものにはドラミングで威嚇したり、木の枝をボキッと折ってみせつけるが、そうして派手に威嚇することで相手を遠ざけ実戦を避けている。

実際、ゴリラが人を襲うことはほとんど無い。
むしろ、ゴリラは人間を救うことがある。
動物園でゴリラの檻に落ちた人間の子供をゴリラが救うというケースは世界で何件か報告されている。
日本の多摩動物公園でも女の子がゴリラに助けられている。

・繊細でストレスに弱い
ストレスで下痢をしたり、心臓系の疾患にかかりやすい。ゴリラは見た目によらずナイーブな生き物なのである。

・頭がいい
ローランドゴリラのココちゃんは現在2000語以上の手話を用いて人間と会話が出来る。
絵本で見たネコを気に入りペットに欲しいとねだったり、歯が痛いと訴えたり、時には嘘やジョークを飛ばす。
死についても理解していてゴリラはいつ死ぬかという問いには「年老いて 病気で死ぬ」と答え、更に死んだらどこにいくのかという問いには「苦労のない穴に」と答えている。
個体差はあると思うが、かなりの知能の持ち主である。

なんだか調べれば調べるほどゴリラの深みにハマっていく気がする。

キングコングのイメージから凶暴で好戦的な生き物だと思い込んでいたゴリラだったが、
今では心なしかゴリラがジェントルな生き物に見えてきて、敬意すら芽生えている。

実は優しくて繊細で知能の高いゴリラ。
そんな彼らが動物園で見せた、あのガラス越しの虚ろな眼差しの意味を考えてしまう。

これから動物園でゴリラに会う時はお辞儀をしようとおもう。
敬意と愛情を込めたささやかなアピールだ。

もちろん周りに人が居なければの話だけれど。

きっと前世のせい

夫は目の前に食べ物があると、あるだけ全て平らげてしまう。
今日はたくさん作って大皿に盛っておいたきんぴらごぼうが瞬く間に消えさった。
食べ過ぎない様に取り皿は用意しているのだが、あまり意味をなさない。視界に入ったものは平らげないと気が済まないらしい。
食後、食べ過ぎで苦しむ夫に
「なぜそれほど苦しくなるまで食べてしまうのか」
と問うと
「わからないけど空腹に対して恐怖を感じる」との回答。
多分彼は前世に飢餓で苦しんだ末に死んだのだと思う。
どうやら自身で調節ができないようなので、我が家に大皿盛り付け禁止令発令。

タクシーでの話


運転手「この間タヌキがヘロヘロになって川沿いを歩いてましたよ。ありゃあ脱水症状起こしてましたね。かわいそうに」
私「へぇー。この辺にタヌキっているんですね」
運転手「◯◯団地の方なんかもまだ居ますよ。この間私初めてタヌキが悲鳴をあげるのを聞きましてね、びっくりしましたよ」
私「タヌキの悲鳴、ですか?」
運転手「悪い野良猫が居ましてね。タヌキの後ろから忍び足でそーっと近づいて行っていきなり襲いかかったんですよ。タヌキからしたら突然で驚いたんでしょうね『ふんぎゃあぁ』って叫んでましたよ」
私「ふんぎゃあぁ、ですか」
運転手「いやぁ、しかし猫って悪いですよね。自分から襲いかかっておいて私はなにも悪いことしてませんってな顔でしらばっくれますからね」
私「あぁ、猫ってそういうところありますよね。飼っていたのでわかる気がします」
運転手「ははははは‼‼でしょう⁈そういうところありますよねぇ猫って‼あれなんなんでしょうねぇ‼」
運転手さんがなぜ突然タヌキの話をし出したのかわからなかったけれど、とりあえずテンションの上がり方からしてタヌキより猫派だということだけはわかった。




マツケムシと夕暮れ

毒家族の中で育ったが、毒家族にも毒家族なりに愉快な思い出もあるものだ。
最近暗い記事ばかりだったので、思い出話をひとつ。


三歳から中学校を卒業するまで、祖父母の家で暮らしていた。
祖父母の家の庭には、楓やサルスベリや梅や松などたくさんの木が生えていた。
なので庭で蝉の抜け殻をみつけたり、いつの間にかハチが巣作りしている現場に出くわしたりすることがよくあった。
ミカンの木には毎年何度かアゲハ蝶が卵を産みにやってきて、祖父はその度卵の駆除に手を焼いていた。
小学校低学年の頃だと思う。私は卵の駆除をしていた祖父の横で何気なく呟いたことがあった。
「この卵が全部孵って庭中ちょうちょでいっぱいになったら綺麗なのにな」
と。

どうやらこれが祖父の心にえらく響いてしまったらしい。それからしばらく経ったある日、学校から帰ると家の前で箒とバケツを持った祖父と祖母が必死に何やら掃き集めていた。「何してるの?」恐る恐る尋ねると、祖父は額に汗を滲ませながらこう答えた。「これみんな集めて庭で育てるべ!」祖母がバケツをこちらに差し出す。「ほら、こんなに集まったよ」バケツの中を覗き込むと、そこには大量の毛虫が蠢いていた。

私は狼狽した。毛虫の成虫は蛾であるという知識をすでに持っていたのだ。目の前で祖父母が孫のためにと必死にかき集めているそれはどう頑張ってもアゲハ蝶になることはない。

「じいちゃん、ばあちゃん。これ、ちょうちょにはならないよ」
「ほら、松の木のあたりにまだいっぱいいるよ!」

このままではまずいと思い、ランドセルを放り投げ自室から昆虫図鑑を持ち出して祖父母に見せた。そしてアゲハ蝶の幼虫とは特徴が異なっていること、柑橘系の葉を食べて育つので松の木についているのはおかしいということ、おそらく集めた幼虫はマツケムシであるということを簡潔に述べた。

祖父母の顔からは笑みが消え、
「なぁんだ。そうかぁ」
と小さくこぼし、肩を落としながら庭の水栓をひねりバケツに水を注ぎ込んだ。

孫の笑顔が見たい一心で毛虫と知らずにマツケムシをかき集めた祖父母。その愛情に気づきつつも残酷な真実を告げようと決めた孫。精一杯生きていただけなのに水攻めにされたマツケムシ。
誰一人として悪くない。
なのにそれぞれが傷ついた、そんな夕暮れだった。

毒家族ファイル②少しでも自分に逆らうと「出て行け!」孫をペット扱いする祖父

3歳から私が高校生になるまで
主に祖母・祖父・私・次女・3女という家族構成だったが、家庭内で絶対的権力を持っていたのが祖父だった。

一言でいうと祖父にとって私達孫はペットである。

逆らうと暴力でねじ伏せるボス猿的存在

祖父の「◯◯するぞ」は絶対であり、決して逆らってはならないものであった。
なぜなら思い通りに行動しないとぶたれたり、
精神的に追い詰められるからである。
「出て行け」は日常茶飯事のことで、雪の日に裸足で家から締め出されたこともあったし、
小学生の時は3女の態度が気に入らないという理由でみんなに3女を空気の様に無視するよう強要し、それに食ってかかった3姉妹と祖母の4人を5畳の部屋で暮らすように言いつけ、トイレ風呂食事以外の時間を一ヶ月程そこで過ごしたこともあった。
祖母に祖父は理不尽だと言っても「逆らわないで早く祖父に謝ったほうがいい」の一点張りで話にならなかった。
(祖母は結局共依存体質だし、可哀想な自分というシチュエーションに身を置いて自己犠牲するのが好きなのである)

もちろんテレビなど見られず、おもちゃで遊ぶなどの娯楽も許されない。
学校から帰り祖父に見つからないようそうっと5畳の部屋に帰り食事と眠る時間まで静かに過ごす日々が続いた。
その間お風呂やトイレに入っていると電気を消されたり、廊下ですれ違う時に肩をぶつけられたりして地味に精神ダメージが募る。

どうやって和解したかは覚えていないが、おそらくみんなで祖父に謝ったんだと思う。

子供の気持ちは関係ない。自分がしたいことに子供を付き合わせる。
小学生の夏休みには暇さえあればザリガニ釣りに駆り出された。
私は虫や魚が苦手なので行きたくなかったし、小学5年生にもなるとザリガニ釣りなんて興味もなかったが、祖父には逆らうと後々面倒なのでついていった。
また、パチンカスであった祖父はパチンコで勝つと家必ずに電話をよこし、これから外食をするから全員パチンコ屋のある駅まで来るよう言った。
食事の支度が済んでいようと、みんなの腹が減っていなかろうと、これから友達と用事があろうと関係ない。誰か一人欠けてもダメ。
祖父のいうことは絶対なのだ。

また、そうやって祖父と連れ立って外出するときに少しでも不機嫌な顔をすると「なんだお前のその目は!」と目の敵にされるので楽しそうに振る舞わなければならなかった。

子供のお年玉でパチンコにいく。
祖父母に不信感を持っていた私は、小学生のうちから自分でもらったお年玉を管理するようになっていた。
幸い搾取されることはなかったが、祖父はパチンコ代が足りなくなると毎月のように私にお金を借りに来た。
逆らって殴られるのも嫌だし、早くに隠居して毎日家にいる祖父が煩わしかったのもあり、大体二万円ずつ貸していた。
これについてはほぼ回収できていたし、利子をつけて返してくれるので当時は何とも思わなかったが、
今思うと孫のお年玉を使ってまでパチンコ屋にいく精神が全く理解できない。

孫はピエロでなければならない。
祖父は酒乱でもあり、少しでも気に入らないことがあると毎日の晩酌後誰かに当たり散らすので、孫たちは機嫌を損ねないように必死で機嫌をとっていた。
なるべく平穏に暮らせるように子供ながら気を揉んでいたのである。

・良い孫には物質的な報酬を与える。
祖父は自分を楽しませた物には報酬として金品を与える。
子供の頃はおもちゃやお小遣い。
大人になっても帰省するたびに電車賃という名目で万単位の小遣いをくれる。

これも気持ちよく受け取らないと気分を損ねるので帰省中の気苦労に対する報酬みたいなものだと思って頂くが、
祖父の孫への接し方はペットと全く同じなのである。

今は・・・


愛玩動物のごとく振舞うことを強いられ、自分の考えや意見を述べることは一切タブーであり、祖父の言動行動に一喜一憂して祖父の思い通りに反応を見せなければすぐに「出て行け!!!」と叩き出されるようなおかしな主従関係の中で育ち、絶対的リーダーだった祖父。

しかし私が高校生になり、父の3回目の再婚で父達が用意したマンションに全員で引っ越すことになってから徐々に権力を失っていった。
もともと気が弱いところがあり、他人の家ではくつろげない性質なので、同居後しばらくすると元の家に戻って一人暮らしを始めたからである。
孫たちは学校の関係で、祖母は仕事を始めていて帰れなかったのもあり、そこで距離を置いたことが良かったのかもしれない。

私も今は結婚し嫁にやったという感覚があるのか祖母のように干渉してくることはないし、甘ったれの猫を2匹引き取ったそうなので愛玩動物は足りているのだろう。

しかし、祖母には私が娘を連れて帰らないことの不満や愚痴をぶつけているらしく、祖母経由で内容が伝わってくる。
「夫くんの実家にはちょくちょく行くくせにこっちには全く帰ってこないから曽孫でも可愛くなくなってくる。たまに遊びに連れて来れば小遣いの一つでもくれてやるのに」

やはり三つ子の魂百まで。
子供や孫や曽孫は愛玩動物以外の何者でもないようだ。

しかし「じいさんこの間こんな変なこと言ってたよ」と前置きして私に丸々伝えてしまう祖母のほうが遥かに毒家族である。







毒家族ファイル①「お前の為に」が口癖。子供のマインドコントロールをする祖母

父の最初の離婚後、父方の祖父母と暮らすことになり、実質私達の母親代わりだった祖母。

 
私3歳、次女2歳、3女1歳の時に引き取られ、
それから私が高校を卒業するまで一緒に暮らしていたが、冷静に考えられるようになった今振り返ると毒家族のなかで最もヤバいタイプであった。
 

①愛は無償ではなく、条件付き

事あるごとに「お前たちには親が居ないんだから」という枕詞を使用して躾けを行った
子供らしい振る舞いやワガママは「親が居ないからだらしないと思われる」と理由で抑圧され、感情を表すことができなくなってしまった。
同様の理由で甘えることやスキンシップを取ることも許されず。
よその人からは「聞き分けがよく礼儀正しい子供」と評価され、祖母にもそう振舞うことを期待されていたが、当時の私は「親が居ない私は祖母の期待に添えなければ他に行く場所がない」のだといつも緊張していた。
 
自分の思い通りにいかないと孫達を無視
小学生の夏休み。その頃祖母は仕事に出るようになっていた。
祖父もパチンコ屋にいき不在だったため、3姉妹でリラックスして過ごしていたある日のこと。
仕事から帰ってきた祖母は家を見るなりブスッと不機嫌になり、その日1日孫たちと口をきかなかった。
理由は察しがついた。子供たちが1日中遊んでいたのが気に食わなかったのだ。
祖母からは特にお手伝いをしろと言われたことは一度もなかったが、明らかに態度でそれを望んでいることがわかった。
 
翌日から私は3姉妹の家事分担表を作り、祖母が帰ってくる前までにみんなで家事をすることを提案した。
案の定帰宅後の祖母は上機嫌。
 
大人の顔色ばかり伺い、自分の行動は祖母にとってどう映るかを気にして生活していた。
 
祖母からみていい子でなければ、私達は他に行く場所がなかったのである。
 

②感情の強制

・定期的に「お母さんに会いたいと思うか」と聞いて子供を試す
こちらから母の話をしたわけでもないのに、突然母親の話題を切り出してくる。
幼い頃に離婚したので、母の記憶など曖昧で別に思い入れもないが、なんとなく母親という存在が特別なような気がして、一度だけ「会ってみたい」と答えたことがあった。
すると祖母の表情は一変し、いかに母が最低な人間であったかを力説され、お前たちを捨てた人間になぜ会いたいと思うのかを当時幼稚園年長の私に小一時間詰問した。
それからは母に会いたいか聞かれても「ばあちゃんたちがいるから会いたいとも思わない」と、祖母にとって一番満足度が高いと思われる返答をするようになった。
 
なぜなら「もうその話やめよう」とかグレーゾーンの回答をすると「これだけばあちゃんはお前たちの為に頑張っているのに、それでも母親に会いたい気持ちがあるのか?!」
とわけのわからない方向に話が進んでしまうからである。
満足そうに「そうだよな。お前たちにはばあちゃんがいるもんな」と答える祖母を見るたび、子供ながらに自分自身の感情が死んでいくのがわかった。
ちなみに月一ペースで聞かれるが、これは私が中学生になるまで続いた。
 

・祖母と違う考えを述べると人格を否定されたり、私の方が間違っていると罵られた

感情を表に出すことは許されず、家でも外でもリラックスすることができなかった。

また、自分の考えや行動に一切の自信が持てなくなっていたため、何か問題が起こると全て自分に原因があり悪いのだと思い詰めるようになっていた。そのため小学校に上がる頃には生きることが辛くなり、毎晩寝る前に神様に「明日目覚めませんように」とお願いする子供になっていた。

だが、しかし朝は来る。
 

共依存関係を築こうとする

やたら私との間に秘密や共通項を作りたがる
自分の生い立ちがいかに不幸かということや家庭の相談ごとを持ちかけ私をカウンセラーとして扱い、二人の間で話したことは他の家族や外で口外することを禁じられた。
また、祖母は自分と私がいかに似た境遇や性格であるかを説き、私を自分の分身のように扱おうとした。
 
付き合っている友達の品定めをし、気に入らない子とは付き合いを辞めるよう促した
私が友達と過ごす世界が増えてくると、
「あんな友達はお前とは世界が違うからあまり付き合うな」「あんな男と付き合ったら苦労する」と、交友関係を自分の監視下で行うよう口出しした。
なぜそんな口出しをするかと責めると「お前の為を思って言ってる」の一点張りで、最終的に私が生まれた時の話や幼い頃の苦労を引っ張り出し、情に訴える手段にでる。
 

④第二次性徴の否定

男女交際は絶対悪
男や性は悪であり、汚いと叩き込まれた
中学生のとき何気なく「○○君に告白された」と祖母に打ち明けたら、翌日その子の家まで行き「うちの子にちょっかいを出すな」と抗議にいった。
 
女性らしいデザインの下着や服を買うと罵られた
レースの下着を買うと「誰に見せるつもりでもないのにそんなものを買うのはおかしい。下品だ」と疑われ、身体のラインに沿うぴったりとしたニットワンピースを着た時は「商売女みたいだ。誘っていると勘違いされてチカンにあっても文句は言えない」と言われ、子供の時と同じような服を着ることを求められた。
いちいち何か言われるのが面倒なので、それからはなるべく地味な服を選ぶようになった。
 
あと、ファーストブラもなかなか買ってもらえなかった。
私はすれて痛いし部活で汗を掻くと透けるからと必死に訴え、中学校一年生の夏に辛うじてスポーツブラを買ってもらえたが、文科系部活だった次女に至っては買ってもらえたのが中学校の修学旅行の時だ。
 

⑤とにかく鬼電

・門限2時間前から帰れコールの嵐
一番ひどかったのは高校一年生の時。
文化祭の打ち上げでカラオケに行くことになり、家にはカラオケボックスの場所(自宅から自転車で10分の距離)と門限の9時までには帰る旨の連絡を入れた。
後片付けなどが終わり、みんなでカラオケボックスに入ったのは7時頃。一度自宅から着信があったが、伝えるべきことは伝えてあるので無視。
すると30分後、私の歌う順番になって再び家から着信が。
しばらく無視していたが、一向に鳴り止む気配がない。
そして8時になる頃には自宅から20件の着信履歴と5件の留守番電話。
留守番電話には全て祖母の声で「今どこだ」「遅くならないうちに帰れ」「門限すぎたら鍵を締める」などの内容が吹き込まれていた。
友達にも心配され、楽しむ気分には到底なれず帰宅。
8:15分には自宅に到着していた。
一応門限は9時と定まっているが、7時を過ぎると嵐のように携帯が鳴り出すためもちろんそんな時間まで遊べたためしはない。
 
・私に繋がらないと仕事中の夫にまで電話
幸い社会人になってから祖母と別居する機会ができ、私は少しずつ祖母の異常さに気づき距離を置くようになっていた。
そして彼ができ、同棲を経て結婚。
祖母とは盆正月とたまの電話をする仲にまでうまく距離を取れていた。
 
しかし1年後妊娠が発覚し、妊娠報告をした日を境にまた祖母の鬼電攻撃が始まったのだ。
 
最初は私の体調やお腹の子を心配する内容だったのが、徐々に祖父の愚痴や過去の苦労話にとり代わり、それが毎日1時間のルーティーンになっていた。気がつくと私はまたカウンセラーに逆戻りしていたのだ。
最終的に「実際授かってみると子供ってお腹にいる頃から可愛いだろ?産まれたらもっと可愛くなる。だからお前たちを捨てた母親は本当に最低だったって今はわかるだろ?」と言い出すようになった。
 
ああ、もうこの人と付き合っていたら駄目だ。
 
そう思った私は祖母からの電話に出なくなった。
毎日携帯は鳴りっぱなし。午前と午後に一軒ずつの留守番電話が入る日々が続き、履歴を見るだけで辟易した私は携帯の電源を切った。
 
すると今度は夫の方に電話。仕事中だろうが御構い無しで留守番電話に私がどうしているか心配だから電話に出て欲しいとメッセージを残すようになった。
 
ここでさすがにブチ切れて、何かあればこちらから電話するからそれまでかけてくるなということと、仕事中の夫に迷惑かけるなということを電話口で伝えた。
今までにない程強い勢いだったので祖母もたじろぎ出産まで電話してこなくなった。
ただ、この時も「お前が何かあったらと思うと心配で・・・」と言い訳していた。
 

毒親は変わらない

産後、祖母とはどうなったかというと私が意図的に距離を置くことで毒を浴びずにすんでいる。
  • こちらからは一切連絡をしない
  • 正月以外こちらからは帰らない
というのを徹底している。
 
しかし、祖母は隙あらば入り込んでこようとするので引き続き注意が必要である。
 
未だに電話も週に1度かかってくるが、油断するとそれが週に3日、2日に1度、毎日とどんどん増えていくので時々突き放さねば精神が持たない。
内容は娘がどうだとか、今妊娠中なので体調はどうだとかそんなところから入るが、ズルズル付き合うととんでもない話に持って行かれてしまうので、愚痴には付き合わない姿勢で愚痴が始まったら切り上げるようにしている。
 
しかし、私に新しい家族が出来て自分の存在が薄くなっていくことを悟ったのか今度は私の不安を煽るようなことを言うようになった。
 
言葉が出るのが遅い娘に対し
「近所の○○さんところの孫娘がお前の娘と同じくらいでよく話す。娘がまだ話さないのはおかしいんじゃないか」とプレッシャーを与えたり
 
義両親の近所に住む義兄の子供(娘のいとこ)と比べて
「ただでさえたまにしか会わないんだから早く義両親をじじばばと呼ぶように躾けておかないとお前の娘は同じように可愛がってもらえないぞ」
とよくわからないアドバイスをするようになった。
 
祖母としては冷たくあたる私にこれでダメージを与えたつもりなのだろうが、
私はもう以前のように毒親の言葉で一喜一憂する子供ではない。

「は?何言ってるの?」と強気で返すとやっぱり「いや、まさかとは思うけど心配で・・・」といつもの枕詞で言い訳を始めるのだ。

「お前の為」は自分のため

結局祖母が言う「お前の為」が本当に私のためであったことは一度も無い。
 
自分が私達をコントロールするときに反感を浴びないため、また気付かれないために
「お前のため」という言葉を用いて自分の言動行動を正当化しようとしているだけなのだ。
 
結局祖母は本当に私達が可愛いのではなく、可哀想な孫たちを引き取って苦労する自分が好きなのである。
そしてそんな自分を褒めてもらいたくて、愛して欲しくてたまらないのだ。
 
過度な干渉やマインドコントロールも誰かに
「しっかりしたお孫さんに育てましたね」と言われたいが為の行為であって、本当に子供のことを考えていた訳ではない。
 

祖母もアダルトチルドレン

祖母自身貧しい家の長女に生まれ、幼い頃から家族のために学校も行かず働いていたという背景があり、彼女もアダルトチルドレンなのである。
甘えることを知らず、家族のために働かなければ存在意義が感じられなかった祖母はインナーチャイルドを抱えたまま大人になり、自覚することもできなかった為毒親になったのだろうと思う。
 
しかし彼女はもう変われないし、変わる気もない。
 
何より私は自分の家族が第一なのでそこを侵食してこようとする者には毅然とした態度で立ち向かわねばならない。
 
それが育ての親だろうと何だろうと。